“読みのむずかしさ”と向き合う

高校に入ると、教科書以外にサイド・リーダーなどのサブ・テキストが支給されます。目的は、長文読解力を鍛えると同時に、社会に対する関心を持ってもらうためです。

ふだん高校生に接していると、リーディングが好きな一部の生徒を除き、長文を苦手に感じている生徒が多いように思います。例えば、長文を見ただけで「クラクラする」とか、読むのは問題ないが、下線部の和訳を面倒に感じるとか。当たり前ですが、日本語であろうと英語であろうと「読む」という行為は学習の基本であり、避けて通るわけにはいきません。したがって、英語の読解が苦手と感じる場合、自分にとって難しく感じるのはなぜか、その理由を分析し、前向きに対応策を考えなければなりません。

いうまでもなく、英語は日本語は言葉のロジックが大きく異なります。特に、英文の論説文などは一定のルールに基づいて書かれています。したがって、パラグラフ・リーディングやアカデミック・ライティングの知識のない日本人の高校生には、ちゃんと書かれている英文であっても、いや、ちゃんと書かれている英文だからこそ、逆に難しく感じてしまうのかもしれません。

また、文法は一通り勉強したのに、今一つ書かれてあることがわからずピンとこないという人、単語やセンテンス単位では意味は分かるが、パラグラフやパッセージ全体では主旨が読み取れないという人は、読んでいる英文のレベルが自分に合っているかどうかを見定める必要があります。特に高校では、各人の興味やレベルに関係なく一律にサブ・テキストが支給され、しかもそれが定期試験の範囲に含まれるため大変に感じる生徒が多いように見受けられます。さらにそれらの問題集の中には、前後の文脈が「?」と思うような英文、出典が記載されていないか、理由もなく元の英文に変更が加えられているテキストがあったりします。

では、具体的にはどうすればよいのでしょうか。たとえば、昔読んだテキストの中に以下のような記述があります。

「…そこで与えられた英文の意味を理解するということであるが、これにはその基礎として二つの面が考えられると思う。…

一つは形式的、機械的な面であり、もう一つは内容的、思想的な面である。…」(『英文をいかに読むか』朱牟田夏雄著)

時事的・現代的なテーマが多く出題される近年の大学入試の傾向からすれば、「思想」という言葉は古いかもしれません。要は、日本語であれ英語であれ、言葉のルールを学び、それと同時に、自ら知識を深めて「中身」を充実させよ、ということです。

英文の論説文は一定のルールや方法に基づいて書かれてると述べましたが、これらのルールは授業やテキストで学ぶことができます。しかし、世の中の知識については自分で学び、身に着けるしかありません。知識というのは、空から降ってくるものではなく、自分で取りに行くものです。「待ち」の姿勢だけでは知識は自分のものになりません。ものを知らないということは、これから「知る喜び」が得られるということです。大いに楽しみましょう。

とはいっても、何から手を付けたらいいのかわからないということもあるでしょう。いろいろな考え方があると思いますが、今までの経験から、「良質な英文が使われている」やさしいテキストを使った多読を実践することを強くお勧めします。英語が上達するということは、意識的に学んだ文法などのルールが無意識のレベルに落ちていくプロセスであるともいえます。そのためには、問題を解くという作業とは別に、やさしくかつ良質な英文を大量に吸収する必要があります。

先にも述べたように、学校で支給される受験勉強用の問題集には、さまざまな制約から「良質な英文を多読する」ための条件を満たしていないものもあります。そこで、興味のある人には、Oxford BookwormsやPenguin ReadersなどのGraded Readersにぜひ目を通すことをお勧めします。これらのテキストは、Les MiserablesやAnne of Green Gablesなどの有名な文学作品以外に、Appolo 13やSaving Private Ryanなどの映画、Martin Luther KingやAudrey Hepburnなどの評伝もあり、中高生が読んでも楽しく、やさしいレベルからステップアップすることができます。Graded Readersのいいところは、自分が学んだ文法などのルールを文脈の中で体感できることであり、先に引用した「二つの面」をあまり意識せずに済むことです。そして何よりも、「自分で」知識を得たいという欲求を刺激してくれます。書店に行く機会があれば、ぜひ手に取ってみてください。

多筆のすすめ

最近では、日本でも英語の学習に多読が効果があることはよく知られるようになってきました。
日本国内で英語の環境にどっぷりとつかることは難しいため、限られた環境の中で良質な英語に触れるには主体的な学習が必要があり、そのための効果的な方法が多読ということだと思います。

裏を返せば、英語の上達には、とにもかくにも英語に接する時間を増やすことがやはり必要であり、文法などを「学習」しただけでは感覚的に英語を理解することが難しい場合があるということです。

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一方で、この多読を一歩先に進め、「多筆」(たくさん書くこと)まで取り組んでいる学習者は少ないのではないでしょうか。学校などの指導現場では、学習指導要綱の変更に伴い、ますますオーラルを重視するようになっています。

しかし、「読む」から「話す」に至るプロセスで、この「書く」という側面がどうも軽視されているか、曖昧になっているように思います。大学受験では推薦入試などを除き、口頭試験で英語の能力を一律に測ることは現実的に困難であるため、今後はますます英作文の比重が高まるものと予想されます(最近では自由英作文という形式もあります)。しかし、いきなり英文を書けと言われてもそう簡単にできるものではありません。高校生は3年生ともなればもう大人に近いのであり、物事を考えるときのベースは日本語です。その段階でネイティブに理解可能な英文をひねり出すのは至難の業です。

さらに、パラグラフ・リーディングやトピック・センテンスなどという専門用語を聞いても、そもそも普段からたくさん読んだり書いたりしていなければ、体感的に理解するのは難しいと思います。英語の習得にはスポーツと同じ側面があり、文法や理論を「学習」しただけではまったく不十分であり、「量」を意識することが欠かせないということだと思います。

では、「量」を意識したこの「多筆」にはどのような効果や意義があるのでしょうか。
これについては、次のエントリで書いてみたいと思います。

企業の英語教育に多読を導入することの効果と意義について

過去に企業から英語研修の依頼を受けたことがあるからわかるのですが、
一般的に、企業における英語研修とはTOEIC研修を指す場合が多いと思われます。
研修予算に余裕のある企業は、TOEICにプラスしてネイティブの会話トレーニングを行うこともあるでしょう。

国内、特に富山という地方性を考えると、TOEICなどの試験対策に傾注するのは理解できることであり、一定のプラス効果はあると思います。

私自身は、自分の英語力強化に最も役立った方法は何かと聞かれたら、「多読」であると答えることにしています。
高校生時代から富山駅の売店でStudent Timesなどを買い、お世話になった大学・大学院でも、ほぼ毎日英文を読む必要に迫られたため、意識せずに「多読」していたと言えます。

ふつうの日本人がこのような環境下に身を置くことは多くないと思われるため、「多読」は極めて意識的な学習行為になります。
また、企業研修等で「多読」を行おうとしても、結果を数値化できなかったり、短期的に学習効果を実感できなかったりする場合が多く、担当者の理解を得ることも難しいでしょう。

そのようなことを考えていたら、素晴らしい記事を発見しました。東洋経済オンラインの記事「新人に英語本500冊を読破させる会社 クレハ、超過劇な英語勉強法」です。この記事によると、クレハでは新人社員に対し、3年間で500冊の本を読ませるとのことです。具体的には、「辞書を引かずに3年間で300万語」ということだそうです。読書に慣れていない若者(オジサンも)にとっては、頭が痛くなるような内容ですが、PenguinやMcMillanなどを使用しているとのことで、最短5分で読めるものもあるそうです。

また、この記事では、中国人の新人社員に対して、「日本に住めば日本語は覚えられる。それよりも、英語をブラッシュアップさせ、高度な技術英語を駆使できるように」発破をかけているとのことです。

このような企業や上司のもとで鍛えられる若者は幸せですね。

高校の英語の授業を英語で行うことについて

富山の英語教室、Across English Academyです。

学習指導要領改訂に伴い、小学校での英語義務化や、高校での英語の授業は原則英語で行うなど、日本の英語教育は大きく軌道修正されます。高校の英語の授業は、原則英語で行われます。過去の受験競争への反省から、コミュニケーション重視へと大きく舵が切られるということでしょう。

何でもそうですが、一つのことを得ようとすると、別の何かを失うことがあります。人間は基本的に不器用な生き物ですから、一度に全部はできません。

自分の学生時代を振り返ってみても、教科の細かいことは覚えていなくても、不思議なことに、先生が何気なく話した個人的な体験や失敗談、さらには生徒に受けなかった冗談などを覚えていたりします。

コミュニケーションには、決まりきったフレーズのやり取り以外に、ロジックを大切にする、アイコンタクトをしっかり取るなど、様々な要素が介在するはずです。

また、コミュニケーションの取り方は本来極めて自由なものであり、その方法について細かく強制することはできません。今まで以上に、教師の技量が大きく問われることになりそうです。

個人的には、一般的に認識されている「コミュニケーション」なるものと同様に、あるいはそれ以上に、「Critical Thinking」を身に着けることが大切だと考えています。